学校ブログ

8月15日に祈る

熊本での余震や次々と発生する台風、そして身近な地域を襲った千葉豪雨。さらには遠く南米コロンビアでも大きな地震が起こるなど、自然の猛威に不安を拭えない日々が続いています。コロンビアと日本――一見遠い国に思えますが、毎朝私たちが口にする一杯のコーヒーなどを通して、世界は確かにどこかで繋がっています。地球という一つの場所に生きる者として、どこで起きる災害であっても互いの無事を願わずにはいられません。

自然の前では人間がいかに無力であるかを痛感させられる一方で、世界に目を向ければ、利害関係をめぐる紛争や戦争が今もなお続いています。自然災害の苦しみがある中で、なぜ人間同士で傷つけ合う愚かなことを何度も繰り返してしまうのでしょうか。

人は時間が経つと、どれほど悲しい過ちであっても痛みを「忘れてしまう」生き物なのかもしれません。だからこそ、毎年の「記念日」には深い意味が存在します。

本日、8月15日は日本の「終戦記念日」であり、隣国・韓国においては「独立記念日」という大切な節目です。そして教会においては平和旬間の最終日であると同時に「聖母の被昇天」の祝日でもあります。

今日の北白川教会おミサは、一場神父様の司式により執り行われました。神父様は説教の中で、8月9日の長崎平和祈念式典での吉田さんの言葉「平和の原点は、ひとの痛みがわかる心…」という力強い訴えを軸に、深く問いかけられました。そしての日の福音朗読(ルカによる福音1:39~56)の中の、マリアの賛歌(マグニフィカト)の言葉――「権力ある者を座から引き下ろし、低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満たされる」という、小さくされた者や苦しむ人に寄り添う神のまなざしと、長崎の平和宣言の思いを見事に結び付けてお話ししてくださいました。その説教の中で、神父様が語られた一つの言葉が特に強く心に残っています。

「『平和宣言』とは、まず今、世界が平和でないということを宣言しているのだ」

このフレーズに、ハッとさせられました。私たちが「平和」を叫ばなければならないのは、まさに今、世界が平和から遠く離れ、傷ついている証拠でもあります。

同じ一つの歴史であっても、立場や国が違えば思いや捉え方は異なります。しかし、マリア様のように、そして長崎で叫ばれたように「他者の痛みを自分の痛みとして受け止める」視点を持つことこそが、平和への第一歩なのだと再認識しました。

忘れてはならない歴史と人々の痛みを胸に刻み、平和のために自分たちに何ができるかを考え続ける一日にしたいと思います。

校長